事実は小説よりも樹なり 2004・6
基地の島で考える2 「バスで沖縄を北上する」 (2004'03'08)



基地の島で考える2 「バスで沖縄を北上する」01
コザの街で、朝の散歩をしていたときに見つけた桜です。
名護市にも桜が綺麗な公園があったのですが、
短い滞在日数だったため見学できず。残念。

 沖縄滞在中、起点にしたのは島の中部、沖縄市だった。正式名称こそ沖縄市というが、地元の人は皆「コザ」という。このコザに、素泊まり2000円で、且つ雰囲気も良い民宿があったのだ。何よりも決め手となったのは、この宿の折りたたみ自転車のレンタルサービス。免許のないぼくにとって、バスにも持ち込める折りたたみ自転車は貴重だった。

 一方の、辺野古。こちらは、沖縄本島北部の名護市に位置する。コザから名護までは、車で行っても90分。そこで、辺野古の集落まで、折りたたみ自転車と共にバスで向かうことにした。

 沖縄でバスに乗っているのは、中高生かお年寄りが大半を占める。車社会が徹底しているため、普通の人は自分の車で移動するからだ。バスは島の東側を北上していく。沖縄市から具志川市へ。車窓からは、キャンプ・マクトリアスという米軍施設が見えた。具志川市には、キャンプ・コートニーという米軍施設もある。沖縄の米軍施設は、空軍の嘉手納飛行場・弾薬庫を除くと、残りのほぼ全てが海兵隊の施設である。

 「米軍基地」というと、軍事施設を思い浮かべるかもしれない。しかし、一言に「基地」と言っても様々である。戦闘機や輸送機が頻繁に離着陸する飛行場などは、まさに「軍事施設」という感じを受ける。いっぽう弾薬庫などは、緑の木々に被われているため、一見すると雑木林のようでもある。言われないとそれとは分からない。また米兵及び家族の居住地は、広い道に芝生の庭が広がっていて、米国のドラマに出てくる住宅地そのものである。

基地ある島で考える2 「バスで沖縄を北上する」02  「基地」というと、フェンスの向こうは「危険な地域」と捉えられるかもしれない。しかし、こういった住宅地を見る限り、「危険な地域」というよりかは、「豊かな暮らし」の象徴のようにも感じる。沖縄の経済水準がいまより貧しかった頃、フェンスの向こうの暮らしは別世界のように映ったのではないか。そんなことを思った。(写真=キャンプ・シールズ内にあるゴルフ場)

 さて、バスは具志川市から石川市に入る。石川市の「琉映前」というバス停。このバス停からほんの150mほどのところに、宮森小学校という小学校がある。1959年6月30日、この小学校に、嘉手納飛行場の戦闘機が墜落し炎上した。児童達は、炎の中を2階から飛び降り、児童11人を含む17人が死亡したという。今まで、文献や新聞記事でしか知らなかった事件の現場をバスは走る。車窓からの、2月とは思えないほどの、青い空と青い海が目に映る。

基地ある島で考える2 「バスで沖縄を北上する」03  バスは、やがて金武町に入る。金城武の略ではない。金武と書いて、「きん」と読む。町役場のある「金武入口」のバス停で、突如バスのアナウンスが英語でも案内された。このバス停の目の前に、「キャンプ・ハンセン」という海兵隊の施設があるためだと思われる(写真)。この金武の町は、市街地すぐそばに米軍施設がある。むしろ、恐らく米軍施設の門前町として発展した町なのだろう。このキャンプ・ハンセンほか、町土の約59.5%を米軍基地が占めるという。 金武町役場ホームページ によれば、キャンプ・ハンセンでは、「県内最大規模の実弾射撃演習が実施されており、実弾射撃演習による原野火災や施設外への被弾など、周辺地域へ与える不安がもっとも高い施設の一つ」であるという。

 実は、この金武町はハワイとも関係がある。ハワイには、沖縄からの移民が数多く存在するが、その沖縄移民の父と言われる當山久三は、この金武の出身なのだそうだ。當山久三の肖像画や銅像は、 ハワイの「ハワイ沖縄センター」 でも見ることが出来る。彼をはじめ、多くの金武の人々が、ハワイほか、北米・フィリピン・中南米等への海外移民の先駆をなしたのだという。

基地ある島で考える2 「バスで沖縄を北上する」04  さて、バスはその後、宜野座村を通り、名護市へと入る。辺野古のすぐ手前、豊原という地域で、真新しい建物がいくつか見えた(写真)。興味を持ったので、ここで下車することにした。その真新しい建物とは、何だったのか?そのことは、また次回に。