早慶戦 (00'06'01)



 5月末、野球の早慶戦が行われた。いわずと知れた早稲田大学にとっての一大イベントである。新入生はこの春の早慶戦を経験してやっと一人前の早大生になると言う教授もいるほどだ。多くのサークルが朝早くから神宮球場に並び、試合では応援団とともに声を張り上げ、そして試合終了後は街へと飲みに繰り出す。早稲田と慶応では繰り出す街が違い、慶応生はさすが慶応、銀座へと飲みに行くのに対し、早稲田は新宿歌舞伎町に集結する。飲み会の一次会が終った頃合いから歌舞伎町のコマ劇場前にぞろぞろと集まり、校歌である「都の西北」や応援歌の「紺碧の空」を合唱するのである。

 今年は観戦に行かなかったが、まだ新入生だったときぼくも歌舞伎町へ行ってみた。コマ劇場前では噂通り、多くの酔った早大生が集まっていた。所々で「都の西北」が歌われていて、日常性から逸脱した喧騒に包まれていた。試合のときに使った紙製のえんじ色のメガホンがそこらへんに散らばっている。元気のある多くの男子学生達が広場の垣根の中に入り木によじ登り、一番上の奴が手を振り校歌の音頭をとっている。が、誰しも自分も校歌の指揮をとろうとするため、上にいる人を引きずり落とし、他の人を踏み台にして這い上がろうとしている。そのため高いところから地面へと落っこちて体を撃っている人もいる。芥川竜之介の「蜘蛛の糸」そのものの世界である。一番大きな人の山の左右にも、同様の人山ができているためあちこちで校歌が歌われ、まとまり、一体感がまるでない。

 ぼくはそれを見てがっかりした。ぼくが想像していた早大生が「都の西北」を大合唱しているような風景はそこにはなく、ただ出鱈目な無法地帯がそこにはあった。その無法地帯になっている原因は、誰しも自分が目立つこと、自分のことしか考えていないということである。その中の一人の男に話を聞いた。彼いわく「サークルの面子がかかっていますからね。」とのこと。周りで見ている自分のサークル仲間にアピールするため彼は他の人を引きずり落として上へとのしあがろうとしている。
 彼の話を聞きながら、ぼくの中で日本の政治が喚起された。自己利益や党利だけを考えて汚職事件を起こす政治家が思い浮かんだ。これは今に始まったことではない。しかし一方で、やがて自分たちの世代になった時、自分たちが政治の担い手になったとき、きっといい方向に変わっていくのではという思いもぼくは持っていた。

 ここにいる、自分が目立とうと躍起になっている人たちもやがて社会に出て行ったときに、彼らは早稲田出身として、例えば政治家のような、人の上に立ち先導していく立場になる人も多いことだろう。しかし、そうなったとき、自分の利益のため、人を平気で引き摺り下ろし、踏み台にしている人間に、人の上にたってその全体のことを、ほかの人のことを考える人間になれるだろうか?
ぼくは、ぼくの持っていた、自分たちの世代になったら変わるのではという思いを、修正した。きっと30年後も変わらない。

あれ以来、早慶戦後の歌舞伎町には行ってないが、今年のコマ劇場前は、変わったのであろうか・・・。