政党の役割 (00'07'16)


 丸山真男の言葉で「新聞の政治記者が、政党記者になっている」という ものがある。
 最初、この言葉を聞いたとき、なるほどと目から鱗が落ちるようだったが、 それから数年たった今も、日本の政治の状況を見る限り、 この言葉は意味を失っていない。むしろ、意味合いを強めているようにさえ 感じる。

 と、いうのも、衆議院選挙が終わり、やはり自民党は単独政権を取れず、 自公保の連立で政権を取っている状況の中、 自民党は公明党との対立を避けるために、憲法改正や教育基本法の 改正についても「見直し」ではなく「検討」にとどめている。
 次期中期防衛力整備計画(次期防)の策定作業についても、 空中給油機の扱いについて、「専守防衛政策に反する恐れがある」と 主張する公明党への配慮から、今年度の導入が見送られた。 そこに見られるのは、政党が一貫した政治理念に基づき行動する姿はではなく、いかに政権をとっていられるかということを優先している姿である。

 大正デモクラシーの頃、犬養毅首相が五・一五事件で暗殺されるまで、 当時の立憲政友会と民政党の二大政党により政権が交互に移行し、憲政の常道と言われていた。しかし、その政策を見れば、政友会が政権の座にいる時は 野党の民政党がその政策を攻撃し、次に民政党が政権に就き、その政友会の政策を引き継ぐと、逆に今度は野党となった政友会が、その政策を批判している。
 例えば、政友会の田中義一内閣の時、政府の調印したパリ不戦条約を 野党の民政党が、その条約文の「人民ノ名ニオイテ」を天皇の統治大権に ふれると攻撃したが、その次、民政党が政権をとった浜口雄幸内閣はロンドン海軍軍縮条約に調印し、逆に統帥権干犯だと攻撃されている。  これでは二大政党制などでは決してなく、ただの足の引っ張り合いによる 政権のたらい回しに過ぎない。その頃から、政治が政策主体によるものではなく、政党間の政権争いが中心のものとなっているのである。

 ここで、話を現代に戻すと、読売新聞が、先の読売憲法改正第二次試案で、「政党条項」を新たに憲法に追加すると提言した。
 本来の政治の姿を考えたときに、そのような、現状の政党政治を追認するような条項は入れるべきではないと感じる。
 そして、ぼくは今回の衆議院選挙でも、もし仮に民主党、ないし野党連合がさらに票をのばし大躍進していたとしても、同様に政権の座についたら変わってしまうのではと危惧してしまうのである。
 何も、憲政の常道を持ち出さずとも、ついこの前の社会党を見ただけでも あきらかなように・・・。