事実は小説よりも樹なり・ハワイ編6
1年後の9・11 (2002'11'25)




1年後の9・11。New York Times誌は
犠牲者の顔写真を何面にも渡り掲載していた。

 今回は、ハワイへやって来て、まだ間もない頃の話。いつも日々の授業や英語に慣れるのにただただ精一杯で、正直日付けなど意識する余裕は持ち合わせていなかった。そして、気が付いたら「1年後の9・11」を迎えていたのだが、実際のところ、その日も他のことで頭がいっぱいで、しばらくは同時多発テロのことなど、すっかり忘れてしまっていた。

 ハワイは、アメリカの中でも、ニューヨークからは遠く離れている。その為、「1年後の9・11」と言えども、普通の日とそんなに変わらないようであった。とは言え、東海岸の地域から来ている学生にとっては、やはり特別な日のようで、自分の住む寮でも、部屋の外に誰かがくくり付けた「We never forget.(決して忘れない)」のメッセージと星条旗がなびいていた。

 大学構内のキャンパス・センターでは、黙祷が捧げられ、ラウンジのテレビでは「9・11」についてのビデオ映画が流されていた。ジュリアーニ前NY市長へのインタビューを基に、9月11日を時間の流れに沿って追っている。広いラウンジにしては小っちゃなテレビのブラウン管を、学生は皆、無言で見つめていた。ラウンジの壁には一面に紙が貼られ、学生の思い思いのメッセージが書き込まれていた。

 画面の中の、悲しみに打ちひしがれるNY市民を見ながら、これがやがて「我らが偉大なアメリカの本土に、このような攻撃を加えたテロリズムを断固許すまじ。」という論調と共に、アフガンへの報復攻撃、さらに現在のイラク攻撃への準備というように転化していった現在を思うと共に、そもそも自分がハワイに来たのは、そのようなアメリカ的な考え方、アメリカ的なものを、この目で見てやろうと思ったからだったと思い出した。

 WTCの崩壊を目の当たりにして、いつか読んだ本の台詞を思い出した。我々は世界の平和を祈ってはいけない。人が祈ってよいのは、人の力が及ばぬことだけだ。・・・考えるのだ!

 アメリカは何故狙われたのか?アメリカが狙われないようにするには、どうしたらよいのか?テロを根絶やしにすればよいのか?新たなテロリストは刻一刻と生まれているのではないのか?テロリストを根絶やしにするのではなく、テロの種を根絶やしにするべきではないのか?その為に方法としては軍事力であるべきなのか?軍事力はテロリストを攻撃するには有意かもしれないが、同時にテロリストの親を殺された少年はテロリストになるのではないのか?その為に、例え無辜でも少年をも殺すのか?少年を殺せばその先にテロリストは根絶やしになるのか?そもそもテロの起こる種とは何だ?貧困か?飢えか?人間が持って生まれた攻撃性か?人間は生まれもって攻撃性を持っているのか?何故アメリカは狙われたのか?アメリカって何だ?アメリカ人って誰だ?“アメリカ的なるもの”なんて、果たして本当に存在するのか?ブッシュ=アメリカではないにも関わらず、アメリカを批判するのか?自分が出来ることは何だ?何が自分には出来るのか?アメリカを知ることか?それはアメリカ人を知ることなのか?誰がアメリカ人なのか?アメリカ人と話が出来るようになるには、どうしたらよいのか?英語が不自由なく使えるようになるには、果たしてどうしたら良いのか?

 1年後の「9・11」、ぼくはそんなことを考えた。誰もが無言でブラウン管を見つめる中、テレビから流れる「GOD BLESS AMERICA」だけが、ラウンジの中、響きわたっていた。