事実は小説よりも樹なり・ハワイ編28
ハワイ日本文化センター (2003'05'05)




ハワイ日本文化センター
戦前の日本人移民の住宅の再現した様子

 ハワイ大学から歩いて10分もかからない所に、「ハワイ日本文化センター(Japanese Cultural Center of Hawaii)」と呼ばれる建物がある。中々に立派な建物で、一階には「おかげさまで(I am what I am because of you)」というタイトルの付いた日系移民の歴史の常設展示がされており、その他にも武道場やバンケット・ホールなども備えている。お正月やひな祭り、こどもの日などにはイベントが開催され、ちょっとしたお祭りのようになる。

 実は、このハワイ日本文化センター、昨年から今年にかけて、その存続が危ぶまれていた。900万ドル(約11億7千万円)という巨額の債務を抱えており、主要債権者である4銀行のグループが、センターの敷地建物に抵当権を設定していたのだ。その抵当権執行期限が昨年12月31日だったのである。

 これに対し、「ハワイ日本文化センターを救う委員会」が組織され、寄付を広く呼びかけたところ、またたくまに巨額の募金が集まり、12月19日までに半分以上の500万ドルの寄付が確約された。これを受け、銀行は債務を返済できる額の募金を集められるまで支払期限を延ばすことを決定し、募金は1月31日の時点で目標額近くの840万ドルまで集まり、抵当権執行は何とか回避されたのである。

 さて先日、その同センターの、日系移民に歴史についての常設展示「おかげさまで」を見学してきた。さとうきび農場での労働者として移民してきた彼らの「義理」や「我慢」、「恥、誇り」といった日本的な価値観が、今日の日系移民の成功につながったとして、入口に置かれた石柱にそれらの言葉が刻まれている。(写真は同センターホームページより)展示は時間の流れに沿って、1世達がハワイにやって来た当時から、農場の様子、家庭、学校、コミュニティーの様子などを実際に再現している。

 約100年前に、このハワイにやって来た移民達が、当時働いていたプランテーションや住宅の再現を見ていたら、過酷と言われている当時の移民の生活も、まんざら悪くなかったのではないかと思えてきた。恐らく同時期の日本での農村のほうが、生活はもっと大変だったのではないのだろうか?展示を見る限り、ハワイでは住宅もきちんとしているし、食事も十分取れたようである。そんなことを感じていたら、実際にある1世の晩年の手記に「あの時、ハワイへ来る船に乗らなかったら、今頃自分は日本でどのような状況になっていたのだろうか。」と書かれたものを発見した。白人の農場監督の下、低賃金での労働であったとは言え、彼が言うように、衣食住がきちんと備わっている分、ハワイのプランテーション生活のほうが、日本と比べてましだったのかも知れない。

 悪夢は、日米開戦と共にやってくる。しかし、2世達による日系人部隊、第100大隊や第442連隊の活躍によって日系米国人は米国に忠誠を示し、戦後は日系人の地位をも向上させる。これらの日系人部隊は死傷率も断トツであったが、苦境をバネにして飛躍していく姿には頭が下がる。このように、初期の移民や日米開戦など、色々と困難もあった訳だが、それを乗り越えていく様子は、一種のサクセス・ストーリーのように感じた。

 その結果、現在のハワイ社会において、日系人は普通の地位を手に入れている。そうなった以上、3世・4世といった若い世代がそれほど「日本」というものにこだわらなくなり、それが同センターへの興味の薄れ、更には莫大な債務につながってしまったのも、ある意味当然のような気もする。

 最後に、もし移民1世・2世達がこの展示を見たらどう反応するであろうか?「義理」や「遠慮」、「感謝」といった日本的な価値観を大切にした彼らは、このサクセス・ストーリーを見てこんな風に遠慮するに違いない。「いえいえ、私はこんな立派なものではありません。このように成功出来たのは、私の力ではなく、皆さんのおかげなのです。」