事実は小説よりも樹なり・ハワイ編23
カント「永遠平和のために」 (2003'04'01)




住んでいる寮から見た、
ハワイの沈みゆく夕日です

 ハワイに来る際に、日本から持ってきた何冊かの本がある。そのうちの1冊を、大学の春休みを利用して読み返した。カント著「永遠平和のために」(宇都宮芳明訳 岩波書店)である。

 この本は、18世紀に晩年のカントによって永遠平和の実現のための提言として書かれた。第一章では、国家間の永遠平和のための6つの予備条項が述べられている。

 第一条項 将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約とみなされてはならない。

 第二条項 独立しているいかなる国家(小国であろうと、大国であろうと、この場合問題ではない)も、継承、交換、買収、または贈与によって、ほかの国家がこれを取得できるということがあってはならない。

 第三条項 常備軍(miles perpetuus)は、時とともに全廃されなければならない。

 この第三条項で、カントは以下のように述べている。

「常備軍が刺戟となって、たがいに無制限な軍備の拡大を競うようになると、それに費やされる軍事費の増大で、ついには平和の方が短期の戦争よりもいっそう重荷となり、この重荷を逃れるために、常備軍そのものが先制攻撃の原因となるのである。」

 極めて先進的で、且つ的を射た指摘である。米国は、冷戦崩壊によりソ連という超大国の仮想敵国がいなくなった後も、軍備縮小を行うことなく、その常備軍を維持するため、イラク・イラン・北朝鮮を悪の枢軸と名指しし、新たな仮想敵国としている。今回、イラク周辺に20万規模の兵力を派遣し、対イラク攻撃に踏み切った米国にとって、査察強化・継続によるイラクの大量破壊兵器の平和的な廃棄のほうが、正に「短期の戦争よりもいっそう重荷」になってしまったのであろう。

 第一章の予備条項は、その後以下のように続く。

 第四条項 国家の対外紛争にかんしては、いかなる国債も発行されてはならない。

 第五条項 いかなる国家も、ほかの国家の体制や統治に、暴力をもって干渉してはならない。

 第六条項 いかなる国家も、他国との戦争において、将来の平和時における相互間の信頼を不可能にしてしまうような行為をしてはならない。たとえば、暗殺者(percussores)や毒殺者(venefici)を雇ったり、降伏条約を破ったり、敵国内での裏切り(perduellio)をそそのかしたりすることが、これに当たる。

 第六条項に関し、カントは、もしこれらの卑劣な戦略が行われたら、敵対行為は殲滅戦(bellum internecinum)にいたるだろうと述べ、以下のように指摘している。

 「殲滅戦では、双方が同時に滅亡し、それとともにあらゆる正義も滅亡するから、永遠平和は人類の巨大な墓地の上にのみ築かれることになろう(中略)それゆえ、このような戦争は、したがってまたそうした戦争に導く手段の使用は、絶対に禁止されなければならない。」

 米・英の対イラク攻撃が始まってから、もう2週間が過ぎようとしているが、当初の早期終結するという楽観的な見方とは裏腹に、まだ米・英軍はバクダットにも到達できておらず、長期戦になる構えを見せている。バクダットにいたる各都市での、イラク軍兵士によるゲリラ的な抗戦が続き、400kmに及ぶ米国軍の補給路は機能不全に陥っている。フセイン大統領の居場所はつかめず、そのため戦いは泥沼化していき、殲滅戦に至る恐れがある。既に国連の権威は米・英国の安保理決議案なしの攻撃により傷つけられ、それに加え、米・英軍、イラク軍、そしてイラク市民に多数の死傷者を出している。人類の、とは言わないまでも、イラクにおいては、彼らの巨大な墓地の上に、米国はやがて誇らしげに、中東の、世界の平和を宣言するのであろう。

 また、カントは、この本の付録において、政治と道徳の合致の問題にも言及している。そこでは、大切なことは政治の方を道徳に合わせる(「国家戦略の諸原理を道徳と両立する形で採用する」)ことであり、逆に、道徳の方を政治に合わせる(「道徳を政治家の利益に役立つように焼き直す」)ことは、あってはならないと指摘する。

 米・英国の対イラク攻撃後初となる小泉内閣メールマガジン第88号では、小泉総理のメッセージの他、特別寄稿として、岡崎久彦元在サウジアラビア大使の談話を掲載した。「小泉総理のイラク攻撃支持表明は近来の快挙であった。」という一文から始まるこの談話は、中段で以下のように述べている。

 「たしかに、ワイド・ショーのレベルでは、いまだにイラク攻撃の是非、安保理決議なしの行動の正当性、そして何よりも戦争すること自体の是非ばかりが論じられ、それが世論調査に影響しているようである。」

 その後、岡崎氏は、これらの論を「評論家的第三者的な善悪是非論」と切り捨て、「責任ある政府が判断の基準とすべき」は、「いかにして国民の安全と繁栄を維持、増進するかである」という。氏の談話を、対イラク攻撃後初の内閣メールマガジンに掲載するということは、つまり、これが日本政府の政治姿勢をあらわしているということであろう。

 安保理決議なしの行動の正当性、戦争すること自体の是非といった道徳面を、ワイド・ショーのレベルと非難し、これらを捨てて政治的判断を行うべきだという。カントによれば、このように道徳の方を政治に合わせることは許されない。

 また、加えていうならば、「いかにして国民の安全と繁栄を維持、増進するか」とあるが、米国によって守られる日本国民とは一体誰を指しているのであろうか。在日米軍基地の75%を引き受ける沖縄では、米軍基地の存在により、騒音や環境汚染、更には周辺市民への暴行といった深刻な人権侵害が多発している。彼らは、責任ある政府が安全と繁栄を維持、増進する「国民」には入らないとでも言うのだろうか?

 また、この本の付録において、カントは「法に反した国家原理を擁護し(中略)、法の侵害を永久化する」という「国家戦略をこととするひとびと」の詭弁的な格率(規則)を示している。最後に、それのうちの1つを紹介して終わりたい。

 「汝が実行したのなら、否定せよ(中略)隣接した民族を汝が征服したときは、責任は人間の本性にあると主張し、人間というものは自分が他人に暴力をもって先んじなければ、他人が自分を先んじ、自分を征服するであろうことが当然予想できるからだ、と主張せよ。」

 正に、現在の米国の「ブッシュ・ドクトリン」そのものであるが、これは18世紀のカントにより、既に詭弁と指摘されているのである。カントは言う。こうした詭弁を用いる「地上の権力者の偽りの代表者たち」が、「擁護しているのは法ではなく権力」である、と。21世紀の現在の社会でも十分に通用する、核心を衝いた指摘であると言えよう。