事実は小説よりも樹なり・ハワイ編20
英語で狂言を観る (2003'03'10)




このー木何の木気になる木ー♪
で有名なこの木は、実は自分の住んでいる
ハワイ・オアフ島にあります

 話は少しさかのぼって、昨年クリスマス前のこと。ハワイ大学で狂言の公演が行われるというので観に行った。校内に貼られたポスターには、アルファベットで書かれた「Kyogen」の文字と共に、演技している白人の写真が使われている。ということは、こちらの人による公演なんだろう、と推測したものの、では日本語と英語どちらで行うのだろう、というのが次の疑問。

 その答えは英語であった。狂言でおなじみの最初の科白「このあたりのものでござる」は、この公演の場合「I before you am a resident around here.」といった風に訳されている。また、英語ではあっても、あの独特の抑揚はそのまま。

 日本語で言いたいことを英語で言う場合、ぼくが普段喋るときには、意味が変わらない限りどんどん言い回しを変えて意訳や省略をしたりする。一字一句を英語に変えるということは、まずしない。しかし今回の狂言では、それこそ一字一句を英語に変えるかのように、なるべく日本語での感じが残るようにしていたのには感心した。抑揚も同じようにし、また、「やっとーな」というような賭け声は訳すことなくそのままにしてあった。そのため、英語で科白が話されてはいたものの、あれはまぎれもなく狂言であった。

 演目は、まずは前半が「TIDE TO A POLE(棒縛)」、「THE SNAIL(蝸牛)」の2つ。棒縛は、主人に棒に縛られた太郎冠者と後ろ手を縛られた次郎冠者が、協力して酒を飲み謡い舞うというおなじみのストーリーであるが、酒を飲んだ時の太郎冠者と次郎冠者の動きが素晴らしかった。昔、酒を飲んだ演技をすると、顔がみるみる赤くなり、客席にその酒の匂いが漂うようであったという狂言の名人の話を聞いたことがあるが、そこまでとは言わなくても、2人から酒によって楽しんでいる様子が生き生きと伝わってくる。

 これは、すごいことだと思った。時間も場所も異なるこの場所の観客にも、その動きから生き生きとした様子が伝わり、笑いを誘う。これが、狂言の「型」の持つ強さなのだと思った。長い年月をかけて出来上がった厳格な狂言の「型」は、だからでこそ非常に完成された表現形態となって、このようにどの国の役者によって演じられ、どの国の人を前にしても通じることが出来る。

 やがて、休憩をはさみ後半。「THE WASHING RIVER(濯ぎ川)」。幕が開いた瞬間、やられたーと思った。舞台上のセットの松の木が、クリスマス・ツリーのように飾り付けられていたのだ。恐妻にあれこれ仕事を押し付けられる夫の話なのだが、内容の中でも、例えば、その日のうちにやらなくてはいけない仕事の中に、洗濯や柴刈りのほかクリスマスの買い物が入っていたり、それを書き出した覚書メモを読み上げる時にクリスマス・ソングのメロディーで読み上げられたりといった遊び心が加えられていた。

 素晴らしいのは、こういったアレンジが、もとの狂言を全然台無しにしておらず、それどころか更に素敵になっていたということだ。これもやはり、狂言の「型」が、つまり基礎となる部分がきちんとしているからこそ、表面的な部分でアレンジを加えても、鼻につくことなしに高いクオリティーを持続できるのだと思う。芯となる部分があれば、それを中心に変化にも対応出来るが、その芯がないと変化にそのまま流され、違うものへと変わってしまうだろう。

 後から知ったのだが、この濯ぎ川という演目自体、中世フランスの「洗濯桶」という喜劇をヒントに作られた新作狂言だったらしい。野村万作・萬斎親子もシェイクスピアの作品を「法螺侍」というふうに狂言に取り入れているが、そういった狂言の持つ「型」の厳格さとそれゆえの柔軟さを、改めて認識した公演であった。何よりも、よく笑わせてもらいました。