事実は小説よりも樹なり・ハワイ編18
えひめ丸 (2003'02'25)




カカアコ・ウォーターフロント公園にあるえひめ丸慰霊碑
犠牲者の数にちなんだ9個のブロックの上に置かれた
9輪の鎖のついたえひめ丸の碇のひとつが、
見晴らしの良い高台に設置されている

 先週末に、真珠湾へと行って来た。しかし、今回書くのは、真珠湾そのものの話ではなく、先日2月9日に発生から丸2年が経過した「えひめ丸」の事故についてだ。この事件、実は真珠湾と関係がある。

 しかし、その前に、最初に一言で「真珠湾」と書いたが、まずはその説明から。真珠湾とは、湾の名前そのもののことであり、実際に多くの人が訪れる場所は、1941年12月7日(日本時間同8日)の真珠湾攻撃の際に沈没し、以後そのままの形で保存されている戦艦アリゾナの記念館である。真珠湾にはその他にも、太平洋戦争で使用された米潜水艦バウフィン号博物館、そして太平洋戦争終結の調印がされ、湾岸戦争でも使用された戦艦ミズーリ記念館といったものがある。つまり、真珠湾という湾に、沈没した戦艦アリゾナをはじめ、いくつかの記念館、博物館が設置されているのだ。

 その中の、「戦艦ミズーリ記念館」は、民間団体「戦艦ミズーリ保存会」によって運営されているのだが、その運営団体の関係者が、「えひめ丸」の事故の際に、原潜に体験航海していたのである。潜水艦の緊急浮上の際、その民間人を操舵席に座らせ、操艦に関与させていたという。

 今月2月10日付のハワイ有力紙「ホノルル・アドバタイザー」は、「えひめ丸、慰霊式行われる。生存者、遺族、事故から2年後に集まる」の見出しで、慰霊式の様子を伝えた。「米潜水艦が日本の水産実習船に衝突し沈没させた際の生存者および遺族が、昨日、事故から2年目の慰霊式を行うために集まった。米海軍代表者も、米潜水艦グリーンビルがえひめ丸に衝突した午後1時43分に行われる黙祷に出席するために、カカアコ・ウォーターフロント公園にある、えひめ丸慰霊碑へと出席した。」

 35人の実習生や乗組員のうち、9人が命を落とし、その後の船体引き上げによる船内捜索により、8人の遺体を収容している。同紙は、ただ1人遺体が見つかっていない、事件当時17歳であった少年の父親の慰霊式でのコメントを、家族で献花する大きな写真とともに掲載していた。「あの悲劇から2年の歳月が経ち、自分の何度もこの公園へと足を運んだが、毎回ここへ来る度に、皆様の心からの誠意を感じます。私の心は徐々に癒されつつあります。」

 事件から2年というのには、もう1つの意味がある。米国法は、事件から2年以内に示談が成立するか、米国内の裁判所に提訴しなければならないと法律で定められているということだ。遺族および生存者は、2遺族による「えひめ丸被害者弁護団」と、残る犠牲者ら7人の遺族と、救助された実習生ら26人、愛媛県による「県・被害者グループ弁護団」とで示談を前提に進めていた。同紙によると、この結果昨年11月に後者の33家族が1300万ドルで示談したのに続き、先月に最後の2遺族も350万ドルで示談を結んだことで、事故に関する全ての補償交渉が終わったと伝えている。

 正直を言って、この新聞記事を読むまで、ぼくは、えひめ丸の事故から丸2年が経ったということを忘れていた。そして、2年前、大学3年次から始まるゼミの最初の春合宿で、この問題を議論した時のことを思い出していた。当時の外務政務官の、この事故によって日米関係が悪化しないようにという先回りの配慮による説明に、半ば呆れ、半ば怒り、誰のための日米関係か、誰のための安全保障かということについて意見を述べたのを覚えている。翻って2年経った今、日本のそのような立場は全く変わることなく、迫るイラク攻撃に対しても、日本としての立場を議論することなしに、国連安保理での新決議をまとめようとする米国の動きを事実上支持している。人々は、自分を含め、えひめ丸の事故を忘れはじめている。5月には、新たな「えひめ丸」がハワイに寄港するそうだ。時間が経つと共に、薄れていく事故への記憶。一方で何も変わらないこの国のかたち。

 真珠湾には、もう1つ「えひめ丸」を彷彿させる記念館がある。潜水艦バウフィン号博物館だ.展示されているバウフィン号は、太平洋戦争中、当時最新鋭の性能を誇り、1945年5月まで9回に渡り日本近海に出動。主に商船を攻撃し、大型船舶16隻、小型22隻を撃沈したという。その中には、沖縄からの学童疎開船対馬丸を含む。1484人の死者を出した悲劇だった。50年以上経った今も、無辜の生徒たちが米潜水艦により犠牲になった。もういい。もう沢山だ。

 2月中に、どうしてもこの「えひめ丸」について書いておきたかった。自分が留学先にハワイを選んだのも、「えひめ丸」の事件を通じ、ハワイなら日米関係が肌で感じられると思ったからだ。普段、それを忘れかけている自分にも警鐘の意味をこめて、この事件について忘れないでいようと思った。