事実は小説よりも樹なり
恋愛戯曲 (01'02'07)



芝居を観に行った。「恋愛戯曲」という芝居である。

この「恋愛戯曲」という芝居の作・演出は、鴻上尚史という人なのだが、実は彼が去年、一昨年と僕の通う早稲田大学で授業をしていて、ぼくはその授業を受けていた。

その時、彼はこう言っていた。

阪神大震災と一連のオウム事件以後、人々は当たり前だと思っていた日常が簡単に崩壊してしまうということに気が付いてしまった、だからこそ逆に“分かり易いもの”を求めている傾向がある。TV番組もそうだし、芝居もそう。また「国家」というものを持ち出してきた人もいる。

そんな話と共に、次の芝居の台本をホテルにカンヅメして書いている、なんてなことも話していた。その時書いていた芝居がこの「恋愛戯曲」。

内容は、TVプロデューサー(筒井道隆)が原稿を催促に来た売れっ子脚本家(永作博美)が脚本を書く話なのだが、舞台の上では、数段階の物語を行き来する。つまり、登場人物が書かれた脚本を読むシーンになると、その脚本の中の話に舞台の上はシフトチェンジし、それらの物語が絡まりあって結末へと向かっていくのだ。

実を言うと芝居を見終わった後も、途中どのシーンがどの段階の物語か把握しきれていない部分もあり、少しごちゃ混ぜになって頭に残っているのだが、なのに、舞台にずっと吸い込まれていた。見終わった後は大きな衝撃を受けた感じだった。

よく分からない。よくは分からないんだけど、すごい。

芝居を観ていてぼくが感じたのは、いわば「離陸をする飛行機の乗客」のような気分である。ゆっくりと走り出した物語は、徐々にスピードを上げていき、終了直前では最高にスピードアップする。身体にもそのスピードとパワーが伝わってくる。

しかし、最後の場面になると(離陸してしまうと)、さっきの力強い状態から(スピードもパワーも変わらないはずなのに)急に、静かで柔らかなトーンになるのだ。

 彼は、この芝居のインタビューで同時に、「日本人はこの不況の中で『会社』という神話を終わらせ、また、アノ事件以来『宗教』も終わらせた。こういう状況になって、ある人々は『国家』というものを『どうだ』って言って持ってきてはいるんだけれど、そうじゃなくて『会社』でも『宗教』でも『国家』でも『家庭』でもないとすると、なんだろうと思ったときに、もう一回『恋愛』が来るかなと思ったんですよ。」と語っている。

ぼくらは、もうオウム事件以後、ライフスペースや法の華といった宗教団体の事件があっても、そんなに驚かなくなってしまった。きっと、もう物事がそんなに単純ではないということをみんな分かってしまったのだと思う。

だからでこそ、わかりやすいものを、非日常に逸脱しない日常の中に全部収まるような分かり易い物語を求める、それも一つではあるだろう。

それに比べ、彼の芝居は、分かりにくい。ギャグだったりとか、ダンスだったりとか、分かりやすい要素をふんだんに取り入れつつも、色んなものが混ざり合って混沌としている感がある。

でも、ぼくはどうも、ちゃんと起承転結のはっきりしたような芝居を観ても、確かにそこそこ面白いし、悪くはないんだけど、でもそれ止まりという、いわば勉強のよく出来る優等生のような感じを受けてしまうのである。

前述したように彼の芝居は、起承転結があって、ちゃんと進んでいって最後にまとまって終わる、というような分かり易い芝居ではない。ごちゃごちゃとしていて抽象的で、混沌としている。でもぼくは、その“よく分からない、よくは分からないんだけど、すごい。”という芝居に惹かれてしまうのである。