事実は小説よりも樹なり
「北陵クリニック」事件に思う (01'01'17)



 最近、病院での事件が多発している。埼玉県の「朝倉病院」での患者への悲惨な実態。鳥取県の「博愛病院」からは赤ちゃんが連れ去られ、仙台の「北陵クリニック」では少女への点滴に筋弛緩剤が混入された。
 病気で苦しいのも大変だけど、病院行くと余計ひどい事になるんだったら、もう怖くて病院なんか行けないよ、オイオイ・・・と思う反面、少し気にかかることもある。

 「北陵クリニック」の守大助容疑者は、待遇や病院内での人間関係に不満があったと供述している。彼は准看護士であるのだが、「点滴の専門家なのに看護婦に使われた」などと供述しているように、准看護士として低く扱われることに不満が募ったらしい。事実、「看護婦と同じ仕事をしているのに待遇に差がある」とも言っているそうだ。
 いくら実力があり、キャリアも長いとしても、「准看護士(婦)」というだけで、「看護婦(士)」との間に待遇、賃金で差が出てしまうのか、と考えたとき、あれ、こんなような社会が他にもあったなあと、ふと思った。
 そう、学歴社会の企業、役所の世界である。しかし、その学歴社会もリストラが顕著になった昨今、終身雇用制の崩壊とともにそういった構図が崩れつつある、と言われている。ぼくはまだ会社に勤めたことは無いので、それが本当かどうかは分からない。が、少なくとも、ベンチャー企業やIT関連企業では、学歴あって無能な人より実力がある人が求められることは、インド人の技術者が引っ張りダコになっているのを見れば何となく分かる。
 しかし、看護婦(士)、准看護婦(士)の世界では、まだまだこの「准」か「正」か、での格差が残っているのである。もともと、看護婦(士)の不足を解消するため作られた「准」看護婦(士)であるが、今では病院経営側が安い労働力を確保するために存続されている仕組みである。現に「北陵クリニック」では、経営悪化から2年前に1人しかいなかった薬剤師をリストラしている。
 事件の再発防止のための1つとして、こういった准看護婦(士)制を見直し、看護婦(士)との賃金格差も解消することも考えなくてはいけないであろう。
 その准看護婦(士)へ支払われる差額の分の確保を、手っ取り早く、診療費・医療費の値上げによって賄うとするならば、患者(市民)もその分負担することになる。
 しかし、ここまで言うと、ただでさえ昨年10月から65歳以上の高齢者からの保険料徴収(半額)が始まり、低所得層の保険料を減免する市町村も相次いでいる中で大きな反発が出てくるのは目に見えている。

 もちろん今回の「北陵クリニック」の事件の場合、准看護婦(士)制度に問題がある前に、守大助容疑者自身の人格に大きな問題があったことは確かである。それを示す事として、肺炎にかかった老女がクリニックを退院する朝に点滴を受け、容体が急変して死亡したのだが、そのときに彼は、「最後の点滴になりますね。」と言って針を刺したという。これはうがち過ぎかもしれないが、その言葉のもう一つの意味を考えたとき、彼の想像を絶する恐ろしさが浮かび上がってくる。
 また、准看護婦(士)制度解決のためには、様々な方法、プロセスがあるだろうから、一概に診療費・医療費値上げという話に直結するものでもないということも分かっている。

 だがしかし、そういった自分達に耳の痛い事には余り触れず、ただ守大助容疑者と「北陵クリニック」という悪者を作り、叩くという姿勢に、ぼくは何だか違和感を抱いてしまうのである。何も、守大助容疑者と「北陵クリニック」に限らない。誰でもいい、どこでもいい、批判対象はいないかと探しまわり、見つけたら、こんなに悪者だったと次々に証言等で仕立て上げ、徹底的にその悪者を叩く。
 本来、事象はもっと、もっと複雑に絡み合っているはずである。しかし、本質的な問題や、では、その問題を踏まえた上でどうしたらいいのか、解決していくのかといった目を失い、ただ事象を単純な見方しかせず「正」対「不正」、「秩序」対「それを乱す悪者」といった構図に切り捨てて終わりにしまう。
 こんな態度、いつまでも続けていたら、その内本当に危なくなると思えてならない。