事実は小説よりも樹なり 非拘束名簿式に思う(00'12'08)



 ぼくの通う早稲田では、さまざまな著名人の講演会やトーク・ライブが頻繁に行われている。先日もジャーナリストの田原総一朗さんと経済評論家の佐高信さんとのお二人でのトーク・ライブがあった。それを聴講しに行った時、始まってからしばらくしてぼくの隣に男の人が遅刻して入ってきた。どこかで見た顔だなと思ったら、川田龍平さんであった。実名を公表して薬害エイズ問題で国の責任を追及した、あの川田龍平さんである。

 川田さんで思い出すのは、なんと言ってもついこの前の、10月22日の衆議院東京21区補選である。彼の母親である川田悦子氏が、長野での県知事選と同じく無党派層を取り込んで、政党推薦の候補を破り、政党不信の象徴だと言われた。

 そして、川田悦子氏が当選してから一週間も経たない10月26日、参院比例区での「非拘束名簿式」が衆院本会議で可決され成立してしまう。まあ、与党三党が過半数を超えているわけだから、成立するのは分かっていたのだが、実際成立してしまうと何とも興ざめしてきてしまう。多数派の意見がいつもまかり通り、少数派の意見はないがしろにされる、それが民主主義だと思われているとしたら、この国の民主主義はどうなっているのかと悲しくなってしまう。

 「顔の見える選挙」という謳い文句の理念は良い。が、なぜ個人名で投票された票を政党の票に換算するのか。それでは「顔の見える選挙」という理念そのものがなし崩しである。この前の加藤紘一氏の乱は結局不発で終わったが、あの時、同じ自民党でも森喜朗や主流派は指示しないが、加藤氏を応援するという人も多数存在した訳である。個人名で投票するのであれば、立候補者の人柄で投票するといったことも可能になるはずであるのに、例えばの話だが、加藤紘一と書いた票によって、森喜朗が当選するとなれば、投票者の意思が汲まれない事になってしまう。これは、元自民党議員から、元社会党議員まで抱える民主党へ投票する場合にも当てはまることである。自分の投じた票が自分の意志と違う使われ方をされたとき、投票者はどう思うだろうか?

 そもそも、この「非拘束名簿式」が出てきた発端は、6月の衆院選挙で自民党が惨敗した後だった。与党三党の絶対安定多数は確保したものの、それだって最初の目標議席数を下げていたからであって、決して自民党があの選挙に勝ったとはいえない。特に東京をはじめとする都市部の小選挙区で軒並み自民党候補が落選し、また、比例代表での獲得票数は民主党が上回った。

 参議院は衆議院と比べ比例代表で選ばれる議席の配分が多い。

 そこで、急遽このままでは次回の参院選が危ないと出されたのが今回の非拘束名簿式比例代表制である。その為、来夏の参院選に間に合わせる必要性から、委員会での審議時間が衆参両院合わせて7日間、25時間(!)に過ぎない。現行の拘束名簿式比例選導入の際が88時間、衆院選挙制度改革の際の198時間と比べても、とても十分審議し尽くされたとは言えない。まさに、多数派によるごり押しである。そこには、「君の言うことには反対だが、君がそれを言う権利は命に代えても守る」といった民主主義の根底理念のようなものは欠片も見えない。

 川田悦子氏、また田中康夫氏の当選に関して多くのマスコミは、確かに二人とも有名人だったが、政党側の敗因はそれだけではなく、組織固め等の旧態依然の選挙や癒着、談合といった自民党政治に有権者が離れていっているという分析をしていた。

 確かに、そうであろう。ただ同時に、やはり彼女らの知名度の高さ、有名だったからという理由も大きな部分を占めていると感じる。だからでこそ「非拘束名簿式」を与党が通してしまうのが怖いのだ。

 しかし、この「非拘束名簿式」、同時に自民党にとって痛手かもしれない。民主党をはじめとする野党が、自民党以上の人気有名人を擁立した場合である。森内閣の支持率が低迷する中、有名人の中でも自民党の要請でより、民主党などの野党の要請で立候補する人のほうが多いかも知れない。

 もしこれでも来夏も勝てなかったら、そのときはまた自民党は選挙制度を変えるのであろうか?