事実は小説よりも樹なり
大田昌秀氏の話を聞いて (2002'07'12)



 先日、大学で大田昌秀さんの講演会があった。
 元沖縄県知事で、いまは参議院議員をしているあの大田さんだ。
 ぼく自身、いま法学部に在籍し主に沖縄基地問題を勉強しているということもあり、大田さんの著書を読みたいなとは思っていたのだが、直接話を聞くのは初めての機会だった。
 もちろん、沖縄の諸問題についても充実したお話が聞けたのだが、沖縄とは直接関係のないことで、印象に残った言葉があった。
「学ぶことの楽しさを一度知ってしまったら、これ以上の人生の楽しみはない。どんな楽しさよりもはるかに楽しいし、心が落ち着いていく。」という言葉だ。
 大田さんは、少年時代、鉄血勤皇隊として沖縄戦に参加したのだが、あるとき米兵から雑誌を盗んで豪に戻ったときのこと。東京から来た、大学出ではあるけれど、あえて将校にはならず一兵卒となった兵隊が、英語で書かれたその雑誌を見て「日本は戦争に負けた」と言う。
 そのときに、大田さんは戦争に負けた悔しさよりも、自分がいかに無知、無学であるかにショックを受けたそうだ。そして、その兵隊に言われた、「もし生き延びられたら、東京へきて英語を勉強しようよ」という一言で人生が決まってしまったと話されていた。
 ぼくは、先ほどの大田さんの言葉を聞いたとき、思わず深く共感を覚えたのだが、正確に言うと、共感というよりも、目から鱗が落ちたといったほうが良いかも知らない。
 ぼくにとって、「受験」だの「試験」だの、そういったことが小さい頃から当たり前に続いてきて、勉強というと、楽しいというよりも、大変とか、つらいというイメージが当たり前になってしまっていた。勉強がすごく楽しいなっていうことが初めて思えるようになったのは、予備校時代になってからである。例えば、高校時代、古文なんてやってられっかと思っていたのだが、予備校時代になって徐々に分かるようになってくると、早稲田の古文の過去問の枕草子を読んでいて、清少納言が中宮定子との死別のシーンを冬の雪の日に思い出す場面なんか、感情移入のあまり思わず泣けてきてしまい、自習室で一人どうしようもなくなってしまったりした。
 分からなかったことが、ただ暗記とかではなく、本当に分かったときの面白さ。自分が新たな世界とつながってワクワクする。このホームページの自己紹介のところに、「未知を既知に変える体験」と書いているのは、そういうことである。
 もちろん、いま大学で学んでいるわけだが、毎日すごく楽しいし充実している。しかし、さすがに大田さんの言うように「これ以上の人生の楽しみはない」と言い切るまでは、そもそも発想として欠如してた。また、今自分がしている勉強が、いわゆる飯の種にもつながっていかないなという思いもあって、確かに勉強は楽しいけれでも、でも、それをやったからといってどうなるんだろう?という思いもあった。
 でも、大田さんの言葉を聞いて吹っ切れた。「これ以上の人生の楽しみはない」んだから、もう存分やってやろうと(笑)

 学ぶことに過保護ともいえる現代。そのことによって、逆に勉強が嫌いだという子供が増えているように感じる。一方、学ぶことに飢えていた少年時代を過ごしていた大田さん。しかし、それだからこそ、学びへの意欲は深いし、それを聞いたぼくらにも説得力が、いわば凄みをもって感じる。知識の量では負けるかもしれない。でも、学ぶことへの情熱では、もう負けるもんか。そう思った。