事実は小説よりも樹なり2003・5
ワセダの授業のこと (2003'10'05)



大隈講堂
大学の後期の授業が始まりました。
この学期が、大学生活最後となりそうです。

 10月に入り、大学の後期の授業が始まった。5月半ばにハワイ大学の留学を終えてから、長い長い夏休みであった。しかし同時に、就職活動を続けながらの夏休みであったので、どこか堪能できなかった想いも残る。いずれにせよ、これからの後期期間が、ぼくの大学生活最後となる。

 久しぶりの、早稲田での授業。相変わらず、前のほうに座る。後期のみ登録した授業で、期せずして面白い授業に遭遇した。一般教養科目の、「大学文化史『早稲田の人と思想』」という授業だ。

 実はこの授業、早稲田では有名な授業なのだ。前期は「歴史的存在としての『早稲田』の歴史に学ぶ」という講義名なのだが、学生は省略して「ワセレキ」と呼んでいる。では、何故有名なのか?早稲田大学で、早稲田のことを扱っている授業だから。それもある。しかしそれ以上に「楽勝科目」、つまり簡単に単位を取得できる授業として人気が高いのだ。早稲田のサークルの中には、授業登録の参考のため、授業に対する学生の声を集め、それを冊子にして出版するところがある。その一つ、「マイルストーン」誌の評価を引用させて頂く。「法学部最強の授業!出席あるけど試験受けられなかった人の救済措置。試験は小説、カレーのレシピ、自民党の批判、何書いてもOkay!」だそうだ。

 こういった授業のため、中には出席を取った途端教室を後にする学生などもいるようだ。また、私語をやめない学生もいる。しかし、講義を聞き出したら、これが予想以上に面白かった。先生はややご高齢であるが、白髪を綺麗に整髪されている。よく糊の効いた白いシャツにベストという外見からは、洗練された印象を受ける。5限の授業であったのだが、「久々の講義で喉の調子が悪いですねえ」とのこと。そして、「喉を湿らすにはアルコールが良いんです。一杯やって講義を行ったほうが、口も上手くすべりますし」と続けていた。授業を受講するこちらとしても、それで面白い話が聞けるのであれば、全く問題ない。しかし、やはり大学という教育機関の性格上、自粛されているようだった。残念。

 大学の授業というと、教授の中には用意してきたノートや原稿を、ただ読んでいるだけの人もいる。そういった授業は、決まって分かりづらいし、知的好奇心もあまり満たされない。一方、この授業の佐藤能丸(よしまる)先生は、原稿も見ずに、流れるように喋りつづける。先ほどの「マイルストーン」誌のライバル紙「ワセクラ」には、先生の名前をもじって、「名前は能丸でもアブノーマルな講談調マシンガントーク」というコメントも掲載されていた。確かに講談を聞いているようだ。もしくは、小沢昭一氏のラジオを聞いているようでもある。

 しかし、外見より話し方より、講義の内容はもっと興味深かった。例えば、早稲田大学文学部を創設された坪内逍遥先生の話。坪内先生は、シェイクスピア全集の翻訳という偉業も達成され、また小説家としても世間の評価は高かったが、晩年は家庭劇や児童劇に取り組んだそうだ。何故か?「真理は平凡な生活の中にこそある。」それ故、生活や児童に目を向けたのだ。また、だからでこそ、天下国家ばかりを論じて、市井の人に目が向かないのでは、いけないのだと仰っていた。

 他にも、後に初の芥川賞受賞作家となった石川達三氏が、在学中に仏文学者である吉江喬松先生の授業を受けた際に、先生の何気ない言動を見て文学の何たるかを悟ったというエピソードを紹介されていた。つまり、そういったものは理屈ではないのだと。そういった環境が整っていて、尚且つ受け手もそれを感じるだけの水準に達していた時に、初めて見えないものが見えてくるのだと。だから、教室に座っているよりも、面白そうな講演会があったら大隈講堂に足を運んだほうが良いとも仰っていた。何故「楽勝授業」と呼ばれているほど、学生への単位認定が甘いのかが、少し分かった気がした。

 そんなこの授業では、「ワセダする」という造語が使われる。これは、ワセダというフィールドで、20歳前後に物事に貪欲にチャレンジするということを表す。自分の知性、教養を磨いていくと、見えないものが見えてくる。最大限のことをすればするほど、見えなかったものが見えてくるようになる。そのような主体的に行動する人に、最も向く大学が、自学自修の大学、ワセダであると。だから、ジャーナリズムや文芸に向くのだと。

 もし自分が1年生でこの授業を受けていたら、ちゃんと出席しなかったかもしれない。当時、出席が必須の語学以外は、ほとんど授業には出席していなかったからだ。その分、様々なアルバイトに行き、そのお金で旅や演劇、お笑いのライブなどに足繁く通ったものだった。あの頃のぼくには、先生の言っていることも、すーっと通り抜けていくだけだっただろう。しかし、そういった経験があったからこそ、今のぼくがいるのだ。

 気が付いたら、大学も5年目。就職もまだ決まらない。先生は、こうも言っていた。「近道は全然ダメ、近道は全然ダメです。近道することは、人生の修羅場も苦悩も何も経験していないということですから。」その言葉が、ぼくの心の琴線に触れた気がした。