事実は小説よりも樹なり 2004・32
物心ついたときに 2 「パンダのトントン」 (2004'10'28)



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我が家にあったレコードプレーヤー
先週の新聞といい、うちは博物館か・・・

 小学校からの帰り道。「国電」の中央線国立駅で帰りの電車を待つ間、生まれたばかりのパンダの話になったことがあった。86年6月1日に生まれたばかりの赤ちゃんパンダは、名前が一般公募によって決められることとなり、27万通の中から「トントン」と命名された。トントンは国内で生まれて無事に育った初めてのパンダだったため、社会的にパンダブームが巻き起こった。

 片道1時間半かけて帰宅しテレビをつける。夕方になるとやっていたのが「夕焼けニャンニャン」。「とんねるず」の司会による、おニャン子クラブのバラエティ番組である。「セーラー服を脱がさないで」もすぐ覚えたが、小学1年生がおニャン子なんて知っていたらいけない気がして、小学校のお弁当の時間にその話題が出た際、先生に「君はおニャン子クラブって知っている?」と聞かれ、とっさに「知らない」と答えたのを覚えている。(「夕焼けニャンニャン」の放送は、85年4月1日から87年8月31日。)

 物心ついたときのアイドルは、上記のおニャン子クラブの他に、松田聖子、中森明菜、南野陽子、中山美穂など。もっとも、「ザ・ベストテン」や「歌のトップテン」が全盛期だったアイドルブームの真っ只中である。挙げていったらきりがない。そんな中でも、ぼくが物心ついたときにデビューし、一世を風靡したのが、「光GENJI」だ。

 「光GENJI」。ローラースケートに乗って歌うというパフォーマンスが、当時は無茶苦茶格好良く思われたものだった。デビュー曲の「STAR LIGHT」に、その後出た「ガラスの十代」、「パラダイス銀河」など現在でも歌える。それにしても今になって考えると、「パラダイス銀河」の「シャカリキ コロンブス」とは、何なのだろう。「しゃかりき」は分かるとしても、なぜ「コロンブス」?

 「光GENJI」と言えば、親に缶バッチを買ってもらって、たまに外出する際に洋服やかばんに付けていた。そういえば、缶バッチも最近あまり見ないなあ。姉が買ったデビュー曲の「STAR LIGHT」のシングルも家にあったが、当時はCDではなくてLPであった。シングルレコードは、普通のレコードよりも一回り小さく、中に光GENJIメンバーの上半身裸の集合写真のジャケットが入っていた。(CDの発売開始は82年。CDが初めてLPの売り上げを上回ったのが88年。)

 当時、CDすらもあまり一般化していなかったが、小学校の音楽の時間、先生がLD(レーザーディスク)を自慢げに見せてくれたことがあった。LDとは、CDのようなディスクなのだが、大きさがアルバムレコードほどもある。劣化が少ないので、半永久的に保存・再生が可能と言っていたが、あれから20年。DVDが全盛となり、LDを見る機会は逆に少なくなっている。結局、カラオケ店や一部のマニアを除いて、一般家庭にはあまり普及しないまま、DVDにその座を奪われてしまったようだ。

 TVやDVDなどの買い替え時期と言えば、オリンピックだろう。ぼくが物心ついたときのオリンピックと言えば、88年のソウル五輪である。卓球のラケットを振りながら「ソウル、オリンピック、ミロ!」と掛け声をかける「ミロ」のCMを真似していた覚えがある。84年のロス五輪のほうは、イーグルのキャラクターは覚えているが、実際に試合を見た記憶は無い。88年のソウル五輪当時は小学生。92年のバルセロナ五輪の時には中学生。その間の4年間は非常に長い時間だった。それに比べて、00年のシドニー五輪と今年のアテネとの間では、あっという間だったような気がする。同じ4年間だとは到底信じられない。

 再び、パンダの「トントン」の話に戻る。この原稿を書くために「トントン」について調べていたのだが、その後13歳でガンが発見され、00年、14歳の時に亡くなってしまったそうである。もう、どうやってもトントンには会えないのだ。現在上野にいるのは、トントンのお婿さんとして来日したリンリンと、新たにメキシコの動物園からやってきたシュアンシュアンの2頭。久しぶりに上野動物園へ、パンダに会いに行きたくなった。