事実は小説よりも樹なり 2004・31
物心ついたときに (2004'10'20)



国鉄からJRへ
国鉄がJRに変わることを報じる、87年3月31日の読売新聞夕刊
タンスの中から、先日偶然に発掘された

 日本シリーズが激しい戦いを繰り広げている。中日が、プレーオフ進出を果した西武と対戦しているが、ぼくが最初に「日本シリーズ」というものを認識した時にも、パ・リーグは西武が優勝していた。広島に3敗した後に4勝をあげ、日本一を果す。1986年。小学1年の時である。

 この前年の1985年には、阪神が西武を下して日本一に輝いていた。しかし、この年の日本シリーズについては、全く記憶がない。まだ幼稚園児であった時の話であるから、それも当然といえば当然であるが、85年の日本シリーズを知らないぼくにとって、阪神は万年最下位のチームという認識しかなかった(失礼!)。

 また、最近こんなことがあった。大学の後輩と話をしていた時のこと。何かの話題で「高橋名人ばりの16連射で・・・」と言ったところ、19歳の後輩はぽかんとしている。「・・・、もしかして高橋名人って知らない?」「誰ですか、それは。」

 そのことがあまりにショックだったため、バイト先の21歳の男の子にも同じ質問をしてみた。「え?それ、誰ですか?」やっぱり。たまたま1人が知らないだけではなかったのだ。続けて別の質問もしてみる。「物心ついたときに、電車って、もしかしてJRだった?」「あたりまえじゃないですか。」「電話もやっぱりNTT?」「もちろんですよ!」

 干支が一回り違うというのならば、そりゃ、物心ついたときの記憶が違うのは当然だと思う。しかし、案外2、3年の違いで、全然違う風景を見て育っているものなのかもしれない。ぼくが85年の阪神優勝を知らないように。彼らが国電なんて知らないように。

 ぼくが物心ついた時。その時、この国の首相は中曽根氏で、米国の大統領は先日亡くなったレーガン氏だった。(中曽根氏在任82年〜87年。レーガン氏81年〜89年。)お金といえば、千円札は伊藤博文、五千円札・一万円札は聖徳太子。(現在の新札は84年〜)それに、岩倉具視の肖像画の500円札もあった。500円硬貨が流通開始したのは、ぼくが幼稚園のとき。(82年〜)

テレホンカード  小学校が少し離れた所にあったので、バス・電車通学するようになった。駅から家に電話する際に使ったのが、まだ真新しかったテレホンカードだった。赤やピンクのダイヤル式電話に加え、緑のテレホンカード対応公衆電話も増えていった。当時、すでに電電公社からNTTに変わっていたが、初期のテレホンカードには「電電公社」と書かれている物もあった(=写真左)。中には、「電電公社」と「NTT」と両方併記されている物もある(=写真右)。ちょうど移行期に作られたカードなのだろう。(電電公社は85年4月まで)いま産声を上げている子供たちが大人になる頃には、「郵便局って何?」と言っているかもしれない。

 電車通学は、最初は「国電」の中央線で通っていた。(国鉄は87年4月まで。)小学校の頃、山手線のステンレス車両が導入され、薄みどりの車体は次第に姿を消していった。国鉄からJRに変わった87年4月1日。車体の横に新たに「JR」と書かれていたのを覚えている。「国電」に変わる愛称を、と公募で決まったJRの愛称が「E電」。「良い電車」をイメージしたそうであるが、全く定着せずにいつしか消えていく。

 電車と言えば、昔は自動改札ではなく有人改札であった。私鉄などでは、ぼくが中学の時もまだ一部は有人改札であったため、全面的に変わったのは比較的最近なのであろう。そのため、小学校低学年の当時は、切符や定期券も普通の紙製で、雨などで濡れると、定期券の文字がにじんだり、端の方がボロボロとかけてしまったりすることもあった。

 幼少時、100円おこづかいをもらった時には、100円丸々おかしが買えた。3%の消費税が導入されるようになるのは、89年のことである。先の日本シリーズの話だと、85年〜94年の内、この89年のみ西武はリーグ優勝を逃している(日本シリーズは近鉄対巨人)。この消費税のために、財布の中に今まであまり見なかった1円玉や5円玉が増えることに。それでも買物はまだ良い。郵便を出す際には、ハガキもそれまでの40円から41円に、封筒も60円から62円という中途半端な料金になったため、わざわざ1円や2円の切手を貼らなくてはいけない羽目となった。

 ぼくが物心ついたとき。書き出したら、結構次から次へと思い出されて止まらない。この話、多分続きます。