事実は小説よりも樹なり 2004・12
基地の島で考える 最終回 「基地問題って、何なんだろう?」 (2004'04'29)



基地の島で考える 最終回 01
太平洋をのぞむ平和祈念公園に並ぶ、「平和の礎」
沖縄戦で亡くなった人の名前を、敵味方関係なく石に刻んでいる

 長期にわたり続けてきた、基地ある島のリポートも、今回が最終回。テーマは、ずばり「基地問題って何なんだろう?」だ。

 そもそも、どうしてここまで、沖縄の基地問題を追い続けるようになったのか?初めて沖縄へ行ったのは、大学1年の夏のこと。当初はリゾート気分で訪れた。右も左も分からなかったところを、現地の人に助けられ、車にまで乗せてもらう。沖縄の人は優しいなあ、と思っていたのだが、国道58号で、基地からの車「Yナンバー車」の事故に遭遇する。それを見て、その沖縄の人が、半ば普通のことのように、半ばあきらめたように、「いつものことだよ」とつぶやいた。

 この国は、「専守防衛」と言いながら、在日米軍の攻撃力に依存し、更にその米軍基地の75%を、国土の0.6%の島に押し付けている。沖縄から日本を見ると、東京から見るのとは違った「この国のすがた」が見える。中学の時、公民で習った日本国憲法には、3つの柱がかかれていた。「国民主権・平和主義・基本的人権の尊重」。自衛隊は、「攻撃力」を持ちません。防衛のための最小限の「実力」です。そう言いながら、5万5000人規模の在日米軍の攻撃力に依存するのが、果たして「平和主義」なのか?誰もが法の下に平等です。権利は誰もが等しく保障されるべきです。そう言いながら、米軍基地の75%をも国土の0.6%の島に押し付けるのが、「基本的人権の尊重」なのか?そうして、法学部で学ぶ4年間は、1つこの問題を中心に勉強しようと決意をした。

 では、沖縄の人というのは、基地を押し付けられている「かわいそう」な人達なのか?今回、普天間飛行場の移設予定地である辺野古へと足を運んだところ、基地建設に反対しているのは、本土から移住してきた人達だった。地元の漁師さん曰く、「辺野古の人で反対している人はいないさー。」また、別の漁師さんは、「アメリカの基地がなかったら、北朝鮮にやられてしまうよ」と、むしろ積極的に評価していた。

 沖縄に駐留する米軍は、そのほとんどが海兵隊、つまり攻撃するための軍隊だ。沖縄の米軍は、外敵から日本を防衛するために駐留しているのではなく、他の地域へ展開するためのハブ基地(中枢基地)として使われている。実際に沖縄を防衛しているのは、那覇の航空自衛隊だ。

 沖縄の米軍は、「攻撃力」であって、「防衛」のための軍隊ではない。また、在日米軍の75%を沖縄に押し付けるのは不公平だ。しかし、本土のぼくがそう思っていても、沖縄に住む人が、そこに米軍がいることによって、気分的に安心して暮らすことができるというのなら、どうして沖縄の基地に反対できようか?ぼくが追い続けてきた「沖縄基地問題」とは、何だ?

 *

基地ある島で考える 最終回 02  沖縄滞在の最終日。普天間飛行場を見に行った。高台から眺めた飛行場は、予想以上に民家と隣接している(写真)。ぼくの沖縄滞在と前後して、米国政府が在日米軍の再編を検討していることが報じられた。その中に、「普天間基地移設の加速」が盛り込まれている。きっかけは、昨年11月のラムズフェルド国防長官の訪日だ。ヘリコプターから、市街地と隣り合わせの基地を見て、「もっといい(再編の)アイデアがないのか、よく考えろ」と、指示したという(日本経済新聞 04年04月08日朝刊)。

 とは言え、長官は必ずしも地域住民の負担を考慮して、そう命じたのではない。市街地と隣り合わせということで、地元の根強い反発が起き、夜間飛行や訓練もままならない。基地が十分に活用されていない、その不合理にいらだったのである。無駄をそぎ落とし、米軍の機動力を高める。それこそが、再編指示の目的であり、地域住民の安全を考えての判断ではない。

 普天間飛行場を見た後に、平和祈念資料館へと足を運んだ。凄惨な沖縄戦の様子が展示されている。戦場のジオラマや、当時の遺品を抜けた先には、真っ白の壁に、「むすびのことば」が記されていた。「基地問題って、何なんだろう?」その問いの答えは、つまるところ、このことばに集約するのではないかと思った。

 沖縄戦の実相にふれるたびに/戦争というものは/これほど残忍で これほど汚辱にまみれたものはない/と思うのです

 この なまなましい体験の前では/いかなる人でも/戦争を肯定し美化することは できないはずです

 基地とは、軍隊とは、つまるところ、戦争のための、人を殺すための集団なのだ。戦争に必要悪はない。戦争は、絶対悪だ。「自国を守るための『自衛権』は、『正当防衛』と同じで、戦争とは別物である。」なるほど、確かに他国に攻められた時に、黙ってやられるわけにはいかないだろう。しかし、その「自衛権」を掲げての攻撃が、米国のイラク攻撃であり、イスラエルのヤシン師、ランティシ氏暗殺なのである。「あれらは極端なケースで、日本の想定する『自衛権』の行使とは違う。」しかし、その米国の「予防的自衛権の行使」を支持しているのが、他でもない日本なのだ。沖縄の海兵隊は、イラクへと派遣されている。日本が思いやり予算によって支えている米軍が、人を殺す。自らも命を落としている。他人事ではない。日本は、ぼくらは、それに荷担している。それが、日本に米軍基地を駐留させるということなのだ。

 戦争をおこすのは たしかに 人間です/しかし それ以上に/戦争を許さない努力のできるのも/私たち 人間 ではないでしょうか

 日米安保条約には、日本国と極東における「国際の平和及び安全の維持に寄与するため」、米軍は日本国において施設及び区域が使用できると書かれている。国際の平和及び安全を望む1人として思う。それは、軍事力では達成できない。なぜなら、軍事力という手段そのものが、生命という最大の平和及び安全を奪うものだからである。「基地問題を考えること。」それは、「基地によらない平和と安全を考えること」なのだと思う。「むすびのことば」は、最後にこう締めくくる。

 戦後このかた 私たちは/あらゆる戦争を憎み/平和な島を建設せねば と思いつづけてきました

 これが/あまりにも大きすぎた代償を払って得た/ゆずることのできない/私たちの信条なのです