事実は小説よりも樹なり 2004・11
基地の島で考える7 「嘉手納飛行場」 (2004'04'22)



基地の島で考える7 01
嘉手納飛行場の軍用機
「KC−135空中給油機」かと思われる

 展望テラスに上がると、視界いっぱいに滑走路が広がった。5分か10分置きに、轟音と共に軍用機が離着陸を繰り返す。基地をバックに記念撮影する観光客。一方、数十センチもの望遠レンズをつけて、離陸の度にシャッターを切る、航空機マニアと思われる人々もいる。

基地ある島で考える7 02  沖縄県嘉手納飛行場。4000メートル級の滑走路2本を持つ、米空軍の極東最大の飛行場だ。そのすぐ脇にある「道の駅かでな」。ここでは、4階が展望テラスとして開放されており、観光スポットの1つとなっている。

 沖縄の在日米軍4万人のうち、65%の2万5千人は海兵隊員が占めている。沖縄の主要な米軍施設のほとんどは海兵隊の施設になっているのだが、その例外が、空軍施設である嘉手納飛行場と、隣接する嘉手納弾薬庫だ。30ほどある沖縄の米軍施設のうち、一番大きなものが「北部訓練場」。それに次いで大きいのが、この「嘉手納弾薬庫」、そして「嘉手納飛行場」と続く。実際、嘉手納町は、面積の約83%をこれらの基地が占めているというから驚きだ。

基地ある島で考える7 03  嘉手納飛行場は、東京ドーム40個分もの大きさで、車で一周しても30分はかかるという。ましてや自転車で移動したぼくは、「道の駅かでな」についた時には、ヘトヘトになっていた。部活帰りの中学生のように、自販機で炭酸飲料を買って、展望台のベンチでごくごくと飲む。そうして、しばし離着陸の様子を眺めていた。(写真=空飛ぶ円盤のような回転ドームが特徴の、E−3空中早期警戒管制機。円盤は半径9mもある)

基地ある島で考える7 04  横田、三沢、嘉手納と3つある在日米空軍の主要基地のうち、嘉手納のみが戦闘機や空中給油機、空中警戒管制システム機(AWACS)、戦闘救難ヘリコプターなど、多様な航空隊を擁した混成航空団となっている。そのため、眺めていると、戦闘機や空中給油機など、様々な種類の軍用機が離着陸を繰り返していた。見ていて、気がついた点を1つ。必ずしも、機体の大きさと爆音の大きさは比例しない。例えば、空中給油機の大きさは、旅客用ジャンボジェット機と同じくらいだが、それよりはるかに小さい戦闘機のほうが、大きな爆音を立てる。どうやら、短距離で急発進、急着陸を行う軍用機のほうが、結果として大きな爆音を立てるみたいだ。

 「道の駅かでな」から戻る際、横にいた観光客のおばちゃんの会話が耳に入った。「あ〜、明日から、また日常に戻らなくてはいけないのね。」恐らく、この日が彼女達の沖縄旅行最終日だったのだろう。沖縄で、非日常の素敵な時間を過ごされたようで、何よりだと思う。と、同時に、このおばちゃん達にとって、そして、ぼくを含む多くの本土の人間にとって、この嘉手納の光景と爆音は、あくまで「非日常」の世界でしかないのだ。日本は「専守防衛」を掲げながら、在日米軍の攻撃力に依存している。そして、その在日米軍の75%を、この沖縄に押し付けている。ぼくや、観光客のおばちゃんが戻った後も、嘉手納では嘉手納の「日常」が続いていく。

基地ある島で考える7 05  では、何故、在日米軍は嘉手納に飛行場を持つようになったのか?答えは、そこに旧日本軍の飛行場があったからである。旧日本軍の「中飛行場」を、米軍はそのまま収容して使用したのである。同様に、嘉手納から北へ約2km、読谷(よみたん)という地域にあった「北飛行場」も米軍に収容され、「読谷補助飛行場」として特殊部隊グリーンベレーや海兵隊のパラシュート降下訓練場として使用されてきた。しかし、現在は、建前上は米軍の管理下になっているものの、日米地位協定に基づく日米共同使用となって、事実上の返還となっている。嘉手納の飛行場を見た後に、その読谷の飛行場跡を見に行った。滑走路は道路として使用されていた(写真)。信号もなく、一直線にどこまでも続く道路。周りに広がるサトウキビ畑は、夕日に照らされ金色に輝いていた。