事実は小説よりも樹なり 2004・4
日露戦争から100年の年に、歴史観について考える (2004'02'11)



横田基地
先日、横田基地を見てきました
そのことについては、また次回以降に書くとして、
今回は、日露戦争と歴史観の話題。

 今年は、日露戦争が始まってから100年。2月8日に、日本軍が朝鮮半島に上陸し、2日後に宣戦布告したという。そのため、ここのところ新聞各紙の社説やコラムでも、よく取り上げられている。

 2月11日の毎日新聞『余録』では、国会議員の明治神宮参拝に絡めて、以下のように記していた。「日露戦争については韓国人も大のロシアびいきだ。(中略)日露戦争は、日本にとっては独立を守った戦争だが、韓国にとっては、独立を失うきっかけとなるのろわしい出来事。」なるほど、同じ出来事でも、立場によって全く史観は異なるものである。

 このように歴史観は国によって、それぞれ異なる。そのため、日本の打ち出す歴史観が、しばし中国や韓国・朝鮮の人々の反発を買う。しかし、「日本」の歴史観は、時として一部の「日本人」自身をも悲しみへと向けるのではないか?

 無論、「歴史観」は個々人によって異なるものだ。その個別の歴史観に最も影響を及ぼすものといえば、やはり教育であろう。つまり、その国の学校でどのような歴史教育がなされてきたかが、個々人の歴史観形成の大きな要因となる。例えば、前掲の毎日新聞『余録』では、韓国人の歴史家の叙述を紹介していた。「『米国のT・ルーズベルト政権は、日本が日露戦争に勝利するやいなや、桂・タフト協定を結び、米国のフィリピン占領を日本が黙認する代わりに、米国は日本の朝鮮強占を黙認しました』(『韓洪九の韓国現代史』平凡社)」。このような歴史認識が広く教育されることによって、個々人の、ひいては国全体の歴史観が形成されていく。

 日清戦争から約100年。日本はバブルがはじけ、その後の現在までに続く期間は「失われた10年」と呼ばれている。「Japan as no.1.」だった日本人の自信は、経済の凋落と共に崩れ落ちていった。(と言われている。実際のところは、ぼくが社会的に物心がついたときには、既に「バブルは崩壊した」と言われていたため、よく分からないのが実状だ。)経済的に自信を喪失するなかで、自信や誇りを過去の歴史に見出そうとする動きが一部で高まった。「新しい歴史教科書をつくる会」は、それまでの日本の歴史観を自虐的史観と切り捨てた。

 一時期話題になった扶桑社の「新しい歴史教科書」には、日露戦争についてこう書かれていた。
「ロシアは満州の兵力を増強し、朝鮮北部に軍事基地を建設した。このまま黙示すれば、ロシアの極東における軍事力は日本が到底、太刀打ちできないほど増強されるのは明らかだった。政府は手遅れになることをおそれて、ロシアとの戦争を始める決意を固めた。」
この「軍事基地」は、実は「伐木場」であり、この説明は日本が先に始めたものを正当化しているものだ、との批判もある。「政府は手遅れになることをおそれて、ロシアとの戦争を始める決意を固めた。」のあたりは、21世紀のどこかの国を彷彿させる。

 「新しい歴史教科書」では、南京大虐殺を「南京事件」と呼び変え、丁寧に「この事件の実態については資料の上で疑問点も出され、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている。」と注釈までつけている。こういった「皇国史観」は、当然、中国や韓国・朝鮮かの人々から反発を買った。しかし、「皇国史観」の持つ、日本の輝かしい歴史は、同時に「日本人」である沖縄やアイヌの人々、在日の韓国・朝鮮人の人々を阻害し、差別していった歴史でもあるのだ。「日本人」の誇り・自信のための歴史観が、同じ「日本人」である一部の人々の傷つける。ここに彼らの二重基準が見受けられる。

 未来は過去の延長線上にある。日露戦争から100年。日本政府は、日本の「国益」を打ち出してイラクへと自衛隊を派兵した。「国益」というところの、「この国」とは何か?「この国の人々」とは誰を指すのか?「国益」という言葉を前に、この国の歴史観を、もう一度僕たち1人1人が考えなおす必要が、今求められている。