事実は小説よりも樹なり 2003・12
紛争に対し「国際社会」はいかに対応すべきか? (2003'12'12)



線路
今回は、長い長いお話。
文章も、結論も、長い長いお話なので、
近所で撮ったどこまでも続く線路の写真。

 「文化的暴力」

 先週書いた平和についての続き。先週、そもそも「平和」とは何か?ということについて、ノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥング氏の「直接的暴力」と「構造的暴力」という問題提起を紹介した。そして、その他に「文化的暴力」というものがあることも紹介した。

 その「文化的暴力」であるが、「直接的暴力」と「構造的暴力」を背後で正当化するようなもので、例えば、宗教やイデオロギー、言語などがあげられるそうである。パレスチナの現状を見たとき、その「直接的暴力」と「構造的暴力」の根底には、ユダヤのイスラムの宗教対立がある。それらの暴力が、宗教を通じ正当化されるのであれば、宗教それ自体が「文化的暴力」といえる。「平和」は、単に「直接的暴力」が不在の状態に止まらず、「構造的暴力」をも改善していくのでなければ、達成されない。そのためには、それらの背後にある「文化的暴力」の問題も重視していかなくてはいけない。

 「武力による平和」か、「武力なき平和」か。

 そういったことをふまえた上で、では、実際にいま起こっている、現在進行形の紛争での殺戮(=直接的暴力)に対し、国際社会は、いかに対応すべきかという問題がある。紛争に対し、何らかの武力で介入するならば、「武力による平和」であるし、徹底的に非軍事力で介入するのであれば「武力なき平和」ということになるだろう。

 日本は憲法によって、戦争を放棄し、戦力及び交戦権を否認している。政府は自衛隊については、「国を守るための必要最小限の実力」で、憲法には違反しないとの解釈を基本的に維持してきた。一方、国連憲章も、加盟国によるあらゆる武力行使を禁止しているが(2条4項)、例外を2つ設けている。?実際に武力行使が行われた場合の、安保理が適切な措置をとるまでの間の、個別的又は集団的自衛権の行使(51条)と、?国連安保理によって国連軍が作られ、その指揮の下で行われる武力攻撃(1条1項、42条)の2つである。これらの場合においては、国連憲章も「武力による平和」を認めているのだ。

 この、憲法の理念と、国連憲章との温度差をどう考えるか?
 それぞれ「武力による平和」、「武力なき平和」の観点から、考えてみることにする。

 「武力による平和」

 まず「武力による平和」について、2つの角度から、その有効性を考えてみる。

 1点目は、「平和は何もしないでは得られない。」ということ。平和を手に入れるためには、「防衛力」と「抑止力」(個別的自衛権+集団的自衛権=国連憲章の例外1)が必要という理論だ。例えば、イラク攻撃前夜、イラクも徐々にではあるが査察の結果を出しつつあり、大量破壊兵器の発見について、もう少し査察継続すべきだったという理論があった。しかし一方で、イラクがしぶしぶながらも査察に応ずるようになったのは、米軍が20万規模の圧倒的な軍事圧力をイラク周辺に配置したからだ。つまり、世界秩序の維持のためには、「抑止力」が大切となってくる。

 2点目は、「万が一戦争になったとしても、戦争は外交手段の延長線上にあるものである。」という理論だ。つまり、「外交の最後の手段としての戦争」(集団的安全保障=国連憲章の例外2)があるという考え方だ。同じくイラクの例で考える。イラク攻撃前夜、フランスとロシアは、査察に時間をかけるべきだと主張した。しかし、これらの国々は、必ずしも対イラク攻撃そのものを否定した訳ではない。一方、全世界でデモに参加した1000万の人々の多くは、戦争そのものを否定していた。国際紛争を、外交交渉によって解決できれば、それに越したことはない。問題は、外交では解決できないときにどうするか。「絶対平和主義」にかけているのは、その視点なのだ。

 「武力なき平和」

 次に、「武力なき平和」の観点から。以前、このページでカントの「永遠平和のために」(宇都宮芳明訳 岩波書店)を紹介したことがあった。上記1点目の主張に対し、カントは以下のように述べている。

 「常備軍(miles perpetuus)は、時とともに全廃されなければならない。常備軍が刺戟となって、たがいに無制限な軍備の拡大を競うようになると、それに費やされる軍事費の増大で、ついには平和の方が短期の戦争よりもいっそう重荷となり、この重荷を逃れるために、常備軍そのものが先制攻撃の原因となるのである。」

 これに対し、以前このページで、ぼくは以下のように書いた。「今回、イラク周辺に20万規模の兵力を派遣し、対イラク攻撃に踏み切った米国にとって、査察強化・継続によるイラクの大量破壊兵器の平和的な廃棄のほうが、正に『短期の戦争よりもいっそう重荷』になってしまったのであろう。」

 「防衛力」と「抑止力」による平和といっても、やがてその「防衛力」と「抑止力」が先制攻撃の原因となることは、先のイラク攻撃がいみじくも表している。

 つぎに、2点目の「外交の最後の手段としての戦争」に対し、カントはこうも書いている。

 「いかなる国家も、他国との戦争において、将来の平和時における相互間の信頼を不可能にしてしまうような行為をしてはならない。(中略)殲滅戦では、双方が同時に滅亡し、それとともにあらゆる正義も滅亡するから、永遠平和は人類の巨大な墓地の上にのみ築かれることになろう(中略)それゆえ、このような戦争は、したがってまたそうした戦争に導く手段の使用は、絶対に禁止されなければならない。」

 「他国との戦争において」と書いているように、カントも「戦争」そのものは、絶対悪でなく必要悪を見なしていたようだ。しかし、その後に、「殲滅戦では、双方が同時に滅亡し、それとともにあらゆる正義も滅亡するから、永遠平和は人類の巨大な墓地の上にのみ築かれることになろう」とも書いている。この本が書かれた18世紀と比べ、戦争の形態は大きく変化した。日本軍によって住民が殺された沖縄戦や、原爆が投下された広島・長崎を通じて、もはや戦争とは必要悪などではなく、絶対悪であるとも強く認識されている。

 紛争に対し「国際社会」はいかに対応すべきか?

 国連憲章は、2つの例外の場合のみ、「武力による平和」を認めているが、ぼくもこの2つの場合にのみは、「武力」の行使を認めても良いのではと思う。逆にいうと、この2つの場合にのみ認められるべきであって、それ以外では認められない。その意味で、米軍のイラク攻撃は、実際に武力行使も行われておらず、また国連決議も不在のまま行われたので、明らかに国連憲章違反であり、認められない。ここで言う「武力による平和」とは、そういう米国の単独主義的な「武力による平和」ではない。一国家内においては、治安の維持のため警察力が認められるように、国際社会を1つの連合体ととらえた時に、警察力である「国連軍」が認められて良いという考えだ。ただ、その場合、国連決議は必要であるし、また最高責任者は国連事務総長であるべきだ。

 実は、長年の冷戦構造ゆえ、現在まで「国連軍」が組織されたのは朝鮮戦争時しかない。しかしそれも、実質は米軍であったため、厳密な意味で「国連軍」が組織されたことは、一度もない。冷戦後は、「国連軍」が組織される可能性は高まったにしても、これに米軍は参加しない。何故か?米軍は米軍の指揮しか受けないという原則があるため、最高責任者が国連事務総長の「国連軍」には参加しないのだ。そのため、湾岸戦争時も、米中央軍司令官指揮下の「多国籍軍」で戦争をやったのである。

 紛争に対し「国際社会」が対応する場合、まずは武力によらないあらゆる手段を尽くすことが大切である。しかし、紛争が止まない場合、その紛争によって命を奪われる無辜の市民を救うために、最後の最後の手段として「国連軍」の組織も認められる。残念ながら、現状だと、米軍が「国連軍」指揮下に入る可能性は低い。米国が変わるためには、米国民1人1人の意識が変わる必要があるのだろう。

 最初の「直接的暴力」、「構造的暴力」、「文化的暴力」の話に戻る。平和を手に入れるため、紛争地における「構造的暴力」や「文化的暴力」を解決するのと同時に、実は米国内で「構造的暴力」と、「米国が世界の警察」というような意識、「文化的暴力」を、それぞれ変えていくことが重要なのではないか?先の長い長い話である。

 今回も「平和」について長々と書いてきた。先日12月9日に、政府はイラク復興支援特措法に基づく自衛隊派遣の概要を定めた基本計画を決定した。紛争に対して「国際社会」がいかに対応するか?今回は、そのことを書いてきた。しかし、その対応策に対して、さらに「日本」がいかに対応するかは、また全く別の大きな話なのである。これもまた、考え出すと長い長い話になるので、また別の機会で扱おうと思う。

 (参考文献)ニューズウィーク日本版・03年2月19日号、03年3月12日号、03年3月26日号