事実は小説よりも樹なり 2003・11
平和について考える (2003'12'02)



新宿御苑
先日、始めて新宿御苑に行ったのですが、
新宿とは思えない程の、心地良い雰囲気でした。
本文とあんまり関係はありませんが、ま、平和な風景ということで。

 大学のゼミで、平和について扱うことになった。そこで、今回は平和について考えてみる。いかにして「平和」を手に入れるか?当たり前のようで、普段中々考えない問題だ。居酒屋で、噂ばなしと世間ばなしで盛り上がることはあっても、「平和」を手に入れる方法で盛り上がることは、あまりない。むしろ、そんな話題で盛り上がる飲み会は異様でもある。

 そもそも「平和」と当たり前のように言ってしまっているが、「平和」とはどういうことであるのか?例えば、日本で「平和」教育というと、ほぼ必ず「戦争」とセットにされてしまっている。戦争、それも多くの場合アジア太平洋戦争の凄惨な描写と共に、だから戦争は良くない=平和が大事、と語られることが多い。「私の知るすべての『平和教育』は特別に時間をさいて行われ、教材はいつも戦争だった。だから、『平和』は戦争と同じくらい非日常的で、特別なものと感じて育った。学校では毎年八月になると、八百屋が季節モノを店先に広げるみたいに、とつぜん『平和教育』が顔を出す。それはふだん食べる果物とは区別してあって、化粧箱なんかに入っている。」これは、ドキュメンタリー映画「軍隊をすてた国」のプロデューサー早乙女愛さんが、著書の中で書いていた言葉だ。なるほどな、と思う。(「平和をつくる教育―『軍隊をすてた国』コスタリカの子どもたち」早乙女愛・足立力也 岩波ブックレット 2002)

 では、「戦争の無い状態」=「平和」であるのか?発展途上国で飢餓に苦しむ子供達が置かれている状況は、「平和」と言えるのだろうか?もしくは、「先進国」の日本であっても、沖縄で全国の国土面積の0.6%程度に過ぎない面積に、在日米軍の専用施設の約75%が集中し、それにより様々な深刻な人権侵害が頻発している状況は、果たして「平和」と言えるのだろうか?答えは。もちろん「否」であろう。この問題に関し、ノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥング氏は、「直接的暴力」と「構造的暴力」という言葉で問題提起をした。

 つまり、戦争を「直接的暴力」と想定した上で、戦争が無いからといって必ずしも平和とは言えないとして、「直接的暴力」に対し「構造的暴力」という言葉を対置したのだ。この「構造的暴力」とは、偏見や差別の存在、社会的公正を欠く状態、あるいは正義の行き届いていない状態、経済的収奪が行われている状態、平均寿命の短さ、不平等などを表し、これら「構造的暴力」を改善していくのでなければ、本当の意味での平和は達成されない、とする。

 ガルトゥング氏は、「直接的暴力」と「構造的暴力」を提言したが、平和のうちに安全に生きる権利に対する最大の侵害は、やはり「戦争」であろう。つまり、平和に近づくために、いかに「戦争」(=直接的暴力)をなくすか、ということである。では、戦争とは、どういった形態が考えられるか??核による破滅を導く戦争、?地域における紛争、?テロ、といったものが考えられる。冷戦下では、東西対立によって戦争は勃発すると考えられた。そういった戦争の行き着く先は、?核による破滅を導く戦争であると考えられた。しかし、冷戦が終わり、現在の戦争は?地域における紛争、そして?テロへと変わってきている。これら、現在の戦争の原因は、東西対立によるものでなく、南北格差による「構造的暴力」に起因すると考えられる。つまり、「直接的暴力」(=戦争)をなくすためには、「構造的暴力」をなくす必要が不可欠なのだ。

 「構造的暴力」を解決するため、ガルトゥング氏は「紛争の転換」を提言している。「紛争の転換」とは、いずれの紛争当事者もが満足できる平和的な解決法、つまり、単に「解決」にとどまらない、「解決によって、創造性のあるアイデアを創り出す」ことだそうだ。その「紛争の転換」のためには、紛争の原因を見極めること、当事者のものの考え方の背景にある文化や歴史、社会の構造をつかむ作業が大事だという。そしてまた、当事者の心を通じ合わせるための「対話」や「和解」の手法など技術的な訓練も必要という。(「平和を創る発想術 紛争から和解へ」ヨハン・ガルトゥング 岩波ブックレット 2003)

 さて、ゼミでの発表のため、今日、指導教授のところへアドバイスを求めて行ってきた。すると、ガルトゥング氏は「直接的暴力」、「構造的暴力」の他に、「文化的暴力」」についても言及しているとのこと。「文化的暴力」とは何をあらわすのか?まだ曖昧にしか理解していないため、このことについては、また次回以降に。

 最初の話に戻る。居酒屋で顔を赤らめながら、噂ばなしと世間ばなしで盛り上がる。平和は、悲惨な戦争の対極によってのみ感じられるものではなく、こんな日常的な時間にだって感じられるものかもしれない。